断捨離が加速している流れからの記録願望とカメラ
歳をとるほどに、断捨離の勢いが加速している。
最初に断捨離、というかシンプルが素晴らしいと思ったのは、スティーブ・ジョブズの伝記を読んだときのこと。2011年に彼が亡くなり、間も無く上下の伝記が出版された。大した知識もないままに面白そうだと手に取ったら、とんでもなく面白い物語を生きた人だということがわかった。圧倒的な完璧主義とシンプルさを持つのがジョブズで、だからこそボタンのないipodが、iphoneが生まれた。
「シンプルってかっこいい!」
そう思って、そこから物を捨て始めた。ところが、やはり捨てることには迷いが生じる。どれも勿体無く感じる。
「せっかく人からもらったものだし。。。」
「これ高かったからなあ。またいつか使うよなきっと。。。」
でも、これではシンプルになれないということで、意を決して捨てることにした。とても疲れる作業で、でもなぜかそれをやらないといけないという強い思いがあり、実行した。
するとあら不思議、いざ捨ててみると全く問題なし。捨てる直前はすごく悩むけれど、いざ実行するともう振り返ることはない。
面白かったのは、昔好きな女の子からもらった可愛らしい年賀状を捨てた時。本当に迷った。これはさすがに捨てなくてもいいのではないか、甘ずっぱい思い出として残しておけばいいではないか!でも、もうこの子は既に結婚しているし、いつまでも持ち続けるなんて女々しい!捨てるべきだ!
えいや!と思い切って捨てた。体調が少し悪くなった。
ところが、翌日。私は何も変わらない日常を過ごした。捨てたことすら忘れていたのだ。ダメージだけではなく捨てた記憶すら綺麗に取り除かれ、何食わぬ日常を生活していたことにあとで気づき、「なんだこんなものか」と思った。同時に睡眠のすごさも知った。
結局人は、ってか私は、同時に多くのものに注目することができない。もしこの文章を書いているマックブックエアーや、iphoneが壊れたら大いに狼狽するだろう。家の鍵を失くしたら一大事だ。それは生活必需品だから。でも、本棚にある1冊の本だったり、クローゼットにあるジャケットだったり、知り合いからもらった旅のお土産は、必需品ではない。毎日使うものでもない。よって、無くなったことに気づかない。じゃあそれって無くても困らないのでは?
そうなると、大事なものは少ないし、少なくて良いとなる。多くのものを所持しても認識できないし、愛着も持てない。ならば、自分が選んだしっくりくるアイテムを少数持って、日々使って気持ちよく生きた方が豊かだなと。
長くなったけれど、最近その断捨離欲が加速している。
ただ、モチベーションが「シンプルってかっこいい!」から「複雑だと私の作業効率が著しく落ちる」というものに変わった。
物がたくさんある環境、いらないものが散乱している環境が、私にはストレスだということがわかってきたのだ。
バンコクから帰ってきたあと、結構捨てた。おかげで快適な空間が作れた。やった!
でも、ちょっと待てよ。このスタイルだとちょっと寂しいのではないか。味気ないというか、思い出が育たないのではないか。無駄なものはいらないが、思い出は欲しいぞ。残しておきたいぞ。
というわけで、やはり日記やこのブログ、snsなどに記録を残しておくことは重要だなと。
で、特に思い出を振り返る時に力を持つのは「写真」と「動画」だ。今日もカンボジアに行った時の写真を久しぶりに見返したら、いろんな思い出が蘇ってきてまた行きたくなってきた。
そうなってくると、欲しくなってくるのが「カメラ」だ。今まではずっとスマホで撮影してきた。iphone6sでもそこそこの写真や動画は撮れるけど、でもやっぱりちゃんとしたカメラには負ける。エントリーモデルでいいから欲しい。最近ではファーウェイのスマホカメラがえらい高画質だからそれでもいい、とにかく良い画質で取れるものが欲しい。
カメラを買って、記録する。いい趣味になるかもしれない。
まずはお金を稼ぐことからだな。。。